私は地質家です
私は経歴書に示したとおりの68歳の地質家です。生まれてから第二次世界大戦での敗戦までは台湾(当時日本領)で過ごし、焼け野が原の仙台に引き揚げて、小学校から大学までを過ごし、以後は古都金沢で12年、名古屋で1年、大阪で10ヶ月、首都圏で足かけ13年を過ごしました。福島での生活も18年目に入りました。この間の様子を以下に紹介します。
私は米軍機の台湾(キールン港)空襲の生き残りです
私は昭和15年6月2日に台湾(当時は日本の領土でした)の台北市内の鉄道病院で、4人兄弟の長男として生まれました。父は台湾総督府の鉄道部に勤めてい ました。太平洋戦争では、父は招集されましたが、南方戦場の基地である台湾での物資輸送の任についているということが幸いしたのでしょうか、戦場に送られ ることなく、数年後に元の職場に復帰しました。しかし、戦場に送られなかったとはいえ、米軍の空襲に耐えて鉄道施設を守り、物資輸送を円滑に行うのが父の 仕事でしたから、父と私たち家族は父の職場に近い官舎で暮らし、共に昭和20年8月15日まで、B29の空襲にさらされる毎日を送っていました。幸いに も、全員生き残りました。両親の兄弟は、台湾、あるいは海南島、さらには満州で、官吏・軍属(技術者)として働いていましたが、シベリアに送られた伯父も 廃人同様になりながらも生還(健康を取り戻しました)するなど、全員が生き残りました(それぞれの家族も無事でした)。身内から一名の犠牲者も出さずに、 敗戦を迎えられたのは奇跡としか言いようがありません。
私は新制小学校の1回生(昭和21年入学)です
敗戦後、私たちは父の郷里(現在の宮城県岩沼市)に引き揚げてきました。その後、父の仕事の関係で仙台に移りました。仙台は米軍の空襲で焼け野が原でし た。そして、焼け跡が遊び場でした。その様な仙台で、私は小学校から大学までを過ごし、仙台が復興してゆく過程を実体験しました。
私の数年上の 小学生は学童疎開を経験していますし、1年上の小学生は、教科書を墨で塗りつぶしました。私達は新制小学校の第1回生(新制中学校では7回生であり、新制 高校では11回生です)で、敗戦後に作成された最初の教科書をもらいました。国語で朗読を命じられた文章に、「花がさいた」という一行があったことを覚え ています。
今上天皇・美智子皇后のご成婚の年に仙台一高を卒業しました。丁度、60年安保の年の昭和35年に地球物理学(地震)を学ぼうと東北大学の理学部に入りましたが、受験数学・受験物理学では歯が立たないことが分かり、地質学に転じました。
大学では地質学を学びました
地質学は、山野を歩き回り、データを集積することが仕事となりますので、体力がものをいう学問分野でもあるのです。体力のない私は、日数をかけることでしのぎました。日数をかけたことで、見落としがちなデータを見落とさずに拾い出すことができるようになりました。
大学で学んだことは種々あるのですが、恩師が発せられた言葉の内から、「歩け。歩け。馬鹿正直に歩け。」、「考えろ。考えろ。眠っている間も考えろ。」、 「酒を飲め。」の3つを、これこそが地質家に必須の要件であると信じ、“座右の銘”としました。この3つの言葉が私の人生を変えたのです。
金沢大学の教養部で12年間、地学を教えていました
縁あって、学部卒業と同時に、23歳で金沢大学の教養部に教務員(教務助手)として採用されました。教務員というのは大学の先生方の研究の雑務を助けるの が仕事で、教官ではありませんが、研究要員でありました。当時は教官定員が少なく、教務員から助手・講師・助教授・教授となる例も少なくなかったのです
私は、幸運にも大学に採用されました。私を採用してくれた助教授の配慮により、私の仕事は、4月から9月までの半年間、3時間の地学実験を担当することだ けでした。その準備と後始末のための時間を除いた時間、即ち、土・日を含め週の半分以上は「歩け歩け」の毎日(研究のための地質調査に従事)でした。疲れ てくると学生時代の念仏(歩け。歩け。)をつぶやきながら歩いていました。
不思議ですね。歩いているうちに目前の点としての露頭が、 他の露頭に線として繋がり、面として広がり、立体として組み立てられるようになったのです。もちろん体力もついてきました。そして、酒も強くなりました。 知らない人の土地に入り込む当時の地質調査では、出されたチャワン酒を一気に呑みほすことが、トラブルを生じさせないための大切な技術だったのです。酒の 席で乱れることを心配する必要がなくなりましたので、人とのつきあいが恐くなくなりました。しかし、一人で飲みに出るほど酒好きではありません。
31歳で助教授になりました。70年安保の翌年の12月、赤穂浪士の討ち入りの日に投票が行われて決まりました。修士号もないのに、講師を経ないで助教授になったのは極めて珍しいことです。翌年の春、32歳で東北大学より博士号をいただきました。
授業を担当して、土木地質学の重要性を知りました
助教授になりましたので、地学の講義をすることになりました。私は法学科・経済学科を中心とする法文学部の学生と土木工学科を中心とする工学部の学生を担 当しました。1クラス120〜150人という大人数のクラスです。講義を始めて間もなく、自分の講義内容が理学部で地質学を専攻しようとする学生を対象と した内容であり、異分野に進もうとする学生には適切な講義内容になっていないことに気づきました。
しかし、異分野に進もうとする学生に向けた適 切な教科書はなく、試行錯誤を繰り返しながら講義内容を変えてゆきました(この作業がコンサルタントであることに役立っています)。そして、教養課程の地 学は土木地質学の分野に深く踏み込まなければならないことに気づきました。なぜなら、人々の住環境に係わる国の予算を配分する役人や、建設工事に関わる人 達に地球に関する知識(地学)を教えるのは教養部の授業(4単位)だけなのです。これでは対象物を理解できないし、有効な対策を打てるはずがないと考えて いました(今も変わりませんが・・・)。当時、土木地質学は、学問としての体系も決まっていませんでした(今でも変わっていません)ので、講義内容は自分 で切り開くほかありません。実務経験のない私には、それは大変な作業であることを思い知らされました。
民間で15年間、コンサルタント業務をしてきました
35歳になって間がない頃、ある地質コンサルタント会社から名古屋支店の地質技術者を指導できる地質家が欲しいが心当たりはないかとの問い合わせがありま した。同級生などに当たったのですが、いずれもが「30歳代の途中で新しい会社に移り苦労するのはご免だ」といって断ってきました。
私は、一度 大学を離れたら二度と戻れないのが日本の現実であることを承知していましたが、講義内容を実体得するためには良いチャンスではないかと思いました。そこ で、「私がいきましょうか」と申し出ました。教授は「そうか。男が一旦決心したのならやってみなさい。」と応じてくれました。金沢大学の教養部会の承認が 得られ、任命権者の文部大臣の許可が得られましたので、辞職が決まりました。35歳と9ヶ月で12年間勤めた金沢大学を退官しました。
名古屋で技術者の指導とダム関係の仕事をさせて欲しいというのが私の入社の条件でした。しかし、名古屋1年、大阪10ヶ月で東京(本社)勤務となりました。
会社(仕事)は生きているのです。入社の折の約束など、「あってもなきがごとし」なのです。私も約束にはこだわりませんでした。東京での仕事は面白いもの でした。38歳で技術士となり、50歳までコンサルタント業務を続けました。50歳で退職してからも、当時の依頼主の意向で仕事が継続しました。
仕事の内容・要求されるレベルは厳しいもので、随分勉強になりました。そして、ハイテク産業による地層汚染という問題にぶつかりました。汚染露頭を一目し て、これこそ次世代の地質家に引き継がねばならないテーマであることに気づき、社長に提案書を提出しましたが、反応は僭越であるというものでした。
50歳で、福島市に会社を立ち上げました
経営者を説得して提案書の内容を実現化するというのが正しいということは分かっていましたが、そんな事をしていると、自分の年齢(49歳)では、技術屋と しての持ち時間がほとんどなくなってしまいます。もう待てないと考え、一人になっても、自分のやりたい仕事をしようと覚悟しました。
独立を覚悟したのは、正にベルリンの壁がこわされ、ソ連が崩壊した年です。辞表提出から辞職が認められるまでの間は大変でした。途中退社がこんなにもエネルギーを使い、時間を使わなければならないのかと思いました。
始めは東京での旗揚げを考えました。しかし、運転資金の融資については当然ながら銀行は担保物件を要求し、貸しビルは高額の保証金が必要でした。いずれも 私には応じきれるものではありませんでした。ところが、福島の東邦銀行が、首都圏から技術士が三人まとまって移って来て、福島には存在しない会社を創ると いうことを評価してくれ、融資に応じようと言ってくれたのです。貸しビルも2ヶ月分の家賃を敷金とする事で良かったのです。その結果、平成3年4月10日 福島に会社を創立することができました。
会社を立ち上げて18年目、まだまだ目的達成はされていません
私が同僚2人と福島に今の会社を立ち上げてから平成20年4月で、17年が過ぎました。現在は18年目に入って半年になろうとしています。私達が目ざしたのは、地方に居を構えてはいるが全国に通用する技術者集団でありました。
目的が達成されているかどうかは、受注内容を見れば分かると思いますので、次の当社の足跡に、この17年間に元請として受注した主なる仕事(私達の特徴を 示す仕事)と年間の受注総額を示しました。一読いただければ分かるように、特化してはいますが「狩猟型」会社の典型であり、「農耕型」会社としては、まだ まだ、ハイハイの段階かヨチヨチ歩きの段階ですね。
10年一昔といいます。18年前の創業期と現在とを比較すると市場環境は様変わりしました。昨日の知識・技術で明日の仕事を得ることは困難となってきましたが、それらの知識・技術が使い物にならなくなったからではありません。
現在の業界の現況は、市場環境の変化に適するように、自分の知識・技術の使い方をどう変えるかにとまどい、手さぐり状態にあると言えます。
地盤・環境リスクコンサルタントを目ざします
私は、平成20年8月になって、やっとこれを脱する方策に気付きました。このブログはその第一着手であります。目的は自己変革を有言実行することにあります。
即ち、私達が地元に根付いた企業となるためには、目を地元の企業・個人に向け、各位が抱えている地盤・環境の問題(リスク)をさぐり出し、掘り出し、各位 と共にそのリスクの解決法や対策を模索し、それを軽減あるいは、資産価値をマイナスからプラスに転ずる提案を行い、それを実現させうる力量を持った地盤・ 環境リスクコンサルタントに変わらねばならないという事であります。
これから、私の会社は順次変わって参ります。私の考えや私共の会社の変革の過程を逐次皆様にお知らせし、知っていただくことが、変革を進めるために必要なこと(有言実行)と考えます。
2008年10月06日
私と会社の略歴を紹介します。
posted by omura at 08:45
| Comment(0)
| ブログ記事
この記事へのコメントはこちらからどうぞ!
コメントを書く


